なくてもこまらないけれど、

個人的な事情に個人的に折り合いをつけるブログです

存在を示すための主張

他人の言うことを間に受けてとりあうことは義務ではなく、自分がすることに関して、他人を納得させる必要はないと私は考えています。

ただその一方で、他人は集団になると個人の望みを奪いうるので、完全無視を決め込むのは危険だとも思っています。

例えば、あなたが絵を描くのが好きだったとします。あなたは絵を描くと楽しい気持ちになれます。しかし、あなたが楽しい気持ちになろうが、他人は別に楽しい気持ちにはなりません。他人は、あなたにお金をたくさん稼げることをしてほしいと思うでしょう。あるいは、他人に尽くすことに時間を使って欲しいと思うでしょう。この要求が、あなたの親や恋人、夫あるいは妻、子供など、極めて個人的な関係においてなされるなら、逃げるなり無視するなり隠れて続けるなりして、絵を描くという選択が粛々ととれるかもしれません。

けれど、「絵を描いた人間は問答無用で無期懲役にして良い」という法律が作られたらどうでしょうか?あなたは絵を描くことを続けられますか?そんな極端なこと起こるわけがない、と思いますか?

私は起こりうると思っています。何故なら、あなたの親や恋人、夫あるいは妻、子供などが集まって構成した社会で法律は定められるからです。「多くの人間が」「望んでいるようにみえる」考えが社会を構成するからです。何故カッコ書きで回りくどい書き方をしたかというと、このカッコ書きの部分は幻だからです。

あなたは周囲から糾弾されても粛々と絵を描きます。また別の場所で、別の誰かが隠れて粛々と絵を描きます。社会は無期懲役の方向に進みます。何故ならあなたも誰かも、他人に臆することなく絵を描きたいと主張しないからです。無期懲役に反対せず、ただ粛々と描くからです。粛々とやっていれば分かってくれる人もいる、という考え方もありますが、分かってくれる人というのはそもそも同類で、無期懲役派が鞍替えしたものではないでしょう。分かってくれる人がいたとしても、身内で分かり合っているだけで明確に無期懲役派に反対しない限り、無期懲役を望んでいる人数の方が多くみえます。そして、「多くの人間が」「望んでいるようにみえる」ことが実現されます。本当は粛々と絵を描いている人間の方が多かった可能性すらあるのに。

すなわち、「社会」に対しての主張に時間を割くことが、ときには必要だということです。無期懲役にするか否かいう強い権限の議論になる段階においては、かなりの勇気がないと主張しづらいので、もっと手前の、絵を描く時間と同じ分だけアルバイトをしましょうとか、努力義務で絵を描く時間は1週間に1時間程度になるように調整しましょうとか、きな臭い提案が出てきた段階で、そんな提案は受け入れられないと主張して相手を足止めするべきだと私は考えます。

ちなみに、今回挙げた例はあなたが迫害される側でなおかつ相手方が現代日本の倫理観では過激とされる思想を持っている、という公平性に欠ける例です。あなたに同意してもらいやすいようにこのような例を使いましたが、あなたや私が迫害する側であり、現代日本の倫理観に沿っているからそのことに気がついていないというパターンもありえます。例えば現代日本は、人を殺すことが何よりの生きがい、という人にはすごく暮らしにくい環境のはずです。戦国時代に生まれていたら大活躍だったかもしれないのに。

ただ、望みがなんであれ、私が言いたいのはあなたや私の望みがたとえ少数派だったとしても、自分以外の誰も望まないことだったとしても、それが望みであると主張することは悪ではなく、してもよい(もちろん、自ら"しない"を選択してもよい)ということです。社会のルール、すなわち善悪は人間が定義したものに過ぎず、人間という生き物の頭の中にあるだけの幻想で、いくらでも変わりうるからです。理性は、どの幻想のなかで生きていくかを選んだその結果に過ぎないのだと思います。

しかし厄介なのは、幻想同士が相反することが多々あり、そうなると人は相手を滅ぼしにかかることがあるという点です。そして、個人が相反する相手を全て滅ぼすことは時間的に不可能なのに、集団になるとそれに近いことができてしまうことがあります(戦争や植民地支配はその一種だと思っています)。しかし集団で滅ぼそうとしても、その経緯は何某かの形で残り、完全に消すことは不可能です。形跡すら消そうと躍起になっても、本当に完全に滅ぼしたかどうかを確かめる術はありません。滅ぼしたつもりでも、新たに生まれてきた人間がかつて滅ぼした人間と同じ望みを持つことだってありえます。争いはいつまで経っても終わりません。自分が滅ぼしたい相手が滅ばないと寝られないというのなら、その人は一生安眠できないでしょう。

だから、相反する相手のことが好きじゃなくても、分からなくても、相手の主張が「存在すること」だけは互いに受け入れて、共存する方法を考えることが、穏やかに生きるにあたって重要なのではないかと思います。もちろん、24時間それに時間を割くと疲れてしまうので、適度に休憩をしながら。

主張しないということは争わない優しさではなく、相反する相手を無視して存在を認めないという行為にもなりうるすると、やはり使い所は意思を持って選択するべきだと思います。

最後に、過激な例を挙げた以上は個人的な見解(この文章自体が全て個人的な見解ではありますが)を述べます。人を殺すことは殺した相手の望みを永遠に奪うことで、"相手の存在を認める""譲歩しあう"ことが絶対に成り立たず、私の考えた幻想のなかに収められない行為です。生死は避けられない絶対に"在る"事象で、人は幻想で生死を見ないようにしています。だからこそ、幻想の範疇で語ることができないのだと思います。

しかし殺意も実は幻想なことがあるかもしれません。例えば、過去のトラウマから人を傷つけるのが生きがいだと思い込んでいる(本当は殺したいわけではない)、と思えればそのトラウマを寛解することで殺さずに済むかもしれません。共存が難しい幻想を捨てて「新しい幻想を持つ」手伝いをすることが心理学やカウンセリングの役割なのではないかと思います。

この考え方にも乗れない、本当に純粋な殺意があるとすれば、今の私の考えられうる範囲では、それはもう人間の形をした災害と称するしかありません。これは嫌です。自分が出会ってしまったときに、残念でしたね、避けられないことなので諦めてくださいなんて言われても納得できないからです。ですが、自らを災害と称する人間がいるとしたら、それは詐称です。"ただ在る"だけの災害は、自身をそれと認識することはできないはずです。自身の存在を認識して定義できるなら、多分それは人間です。

この問答には気持ちの良い答えがなく蛇足です。ですが、ちゃんと書かないとこの記事全体が都合の悪い部分を見ない綺麗事の上滑りになるので書きました。

次回、主張した時に立ちはだかる壁についてです。

「価値と存在意義について」(2022/1/9更新予定)

「分からせ」要求について

好きだったのに、辞めてしまったことってありませんか?あるいは、興味を持ったけれどどうしても始められないこと。くだらない、あるいは自分には無理と吐き捨てたこと。

今日は、そういうときに障害なっているかもしれない分からせ要求について書きます。

例えば、歌を歌うのが好きだったとして。幼い頃は、何も心配することなく歌えたでしょう。そして将来は歌手なり、アイドルなり、歌を歌う職業になるんだろうね、と周囲の人間から言われ、本人も将来の夢を歌手やアイドルと答えるようになるでしょう。周りはこの子は将来の夢が歌手だから歌っているんだと理解します。本人も、私は歌手になるんだ、頑張ろうと頑張り始めます。そして、関わる人間が増えるに従って気がつきます。

「私よりもずっとうまく歌える人がたくさんいるんだ」

こうなったらもう大変です。周囲の人間に、自分が歌が上手いことを「分からせ」ないと。そうでないと、歌を歌い続けることは出来ません。音大に入れるくらい上手くならないと、YouTubeの再生数がランキング上位になるくらい上手くならないと、ライブハウスを埋められるくらい上手くならないと、誰にも迷惑をかけずに生活するお金を稼げるくらい上手くならないと。だってそうでなければ言われてしまうからです。

「いつまでも夢を見るのはやめて現実を見なよ」

続けることの正当性を周囲に認めさせられるほどの能力や努力の姿勢が見せられなければ、もっと「賢い」「現実的な」選択をするように迫られます。私がもっと歌が上手ければ、歌うことが「生産的」と認められて許されたのに、どうしてもっと頑張らなかったんだろう。頑張らなくて許されなかった私には、歌を歌う権利がない。もうやめよう。

これが分からせ要求とそれに応えようとした人の結果です。好きなこと、してみたいこと、ただ楽しいからすることに対して、何故か周囲の人間が自分を納得させるよう要求してくることがあります。そして、何故か要求された側も応えなくてはいけないと思い込んでしまいます。

これは、例えたように「夢」という形でポジティブに求められることもあれば、「やっかみ」という形でネガティブに求められることもあります。

やっかみというのは、例えばメイクをしてみようかな、と思った時の「色気づきやがって」とか新しくスポーツをやってみようかなと思ったときの「始めるのが遅すぎて勝てないよ」とかそういうやつです。ただ好奇心からやろうとしたことに、外側から妄想で理由づけをしてきて、その理由に釈明することを求める行為です。あなたはただ着たい服に似合うようにメイクをしたいのかもしれないし、ラケットを振ってみたいからテニスをするのかもしれないのに。それに、理由がモテたいからでもそのスポーツで勝ちたいからでも「その通りです。浅ましい私を赦してください」なんて、やっかみを言ってきた人に赦しを乞う必要はないはずです。だってその人の赦しがなくたってやりたいことはできるし、罪でも何でもないからです。

これらの分からせ要求に対して何故要求された側も加担してしまうかというと、それはあまりにも当然のように蔓延っているからだと思います。「夢を持つ」ことを否定するのは悪として表現されるし、「やっかみ」はそれを乗り越えることが成功者の美談とされるからです。夢を否定すると悪になってしまうし、やっかみから逃げたら成功者になれないからです。そもそも成功者になる必要はないし、この考え自体が人間によって作られたものなんですけどね。

多分、エンターテイメントなんだと思います。

分からせを要求する側が、どんな壁にぶつかっても夢に向かって努力する人間に自分を重ねて気持ちよくなり、そのあとその人間が諦めて自分と同じになったことで自分の正当性を確認して安心感を得る、そういうエンターテイメント。

例えば金メダル候補のスポーツ選手の成績が芳しくなかったとき、何故か応援した人への謝罪を求められるのは、このエンタメの「夢」という部分を満たさなかったことへの糾弾なんだと思います。「諦め」という観点では、親が子にかつて自分が目指したことを目指して欲しがったり、自分に無理だったことをやらないで欲しがったりする傾向がそれにあたるのではないかと思います。次世代に受け継ぐと言えば聞こえがいいですね。

このエンターテイメントを求めるのはきっとやりたかったことを取り上げられたと感じている人です。本当は不本意だと感じていることがあると、それがおかしなことではなく、正当なことだと確認して安心したいという欲求が生まれるのではないかと推測しています。

だからといって、要求するな!とか謝れ!とか言ってもまず相手に自覚がないので、その訴えが通る確率は低いです。要求される側がこの分からせに気づかず思い込んでしまうのと同じように、要求した側も自覚はないでしょう。

訴えが通って謝られたとしても、私たちの置かれた状況が変わるわけではありません(その瞬間は気持ちいいかもしれませんが)。謝らせることも、「分からせ」の一種にすぎないのだと思います。何かをすることの許可を自分以外の人間から明示的に受けるいう観点では、謝らせることと能力で認めさせることに違いはありません。他人の気持ちがいつ変わるかは分からないので、常に許可が得られているか確認しなくてはならず、不安は拭えないでしょう。大体、今はインターネットで見ず知らずの人間のやっかみがいくらでも知れてしまいます(あんまりインターネットで夢の要求って見ないですね、私の見るインターネットが荒んでる?)。逐一全てに取り合って思い込んで謝らせようとしていたらいくら時間があっても足りないです。

だから、あなたが「何かをする」にあたってその正当性の証明に力を注ぐ前に、その一個人に分からせないとそれをすることはできないのか?という疑問を持ってみてほしいのです。分からせ要求の存在を認識したうえで「いつどこまで真面目に取りあうかを自分自身で決める」という意思決定をはさんでほしいのです。もしかしたら環境を変えてその人から離れれば済むのかもしれませんし、もしかしたら無視しても大丈夫なのかもしれません。

常識として要求される"夢"や"挫折"や"大人になること"に対して、これらが今相対している個人の要求に過ぎず、この世の絶対の真理ではないと認識したとき、おのずとみえてくる選択肢も変わるように思います。

ただ、外部に主張しないと自分だけではどうしようもないことっていうのもあると思っていて。次回はそれについて書きます。

次回、存在を示すための主張(2022/1/2更新予定)

普通の人生について(できないという観点から)

私は、普通の人生をとても難しいと思います。

ここで言う普通の人生というのは、学校や職場に毎日通うことや人と仲良くなること、そしてその延長として家庭を持ち、それを幸せだと感じることです。

できるできないは一旦おいておき、"人間は本能的にこれらを心地よく感じ求める"という前提は共通認識として存在しているように思います。多くの人が幼い頃から特に疑問を持たず、そこそこ楽しんでこれらを行なっているように見えます。また、そうしたいのにできないという場合はできないことに劣等感を抱くことになるようです。

一方の私はというと、これらを目指すにあたっての知能がとんでもなく低く、できないうえにそもそもの必要性もよく分かってないという状態です。

例えば、多くの人が当たり前のように行なっている「人と話す」と一言で表現される行為でも

・ガン見にならない程度に相手の目を見る

・その場に適した声の大きさで話す

・話の内容や相手の反応に合わせて表情や抑揚をつける

など、実は話す内容以外にも考慮すべきことがたくさんあります。私は人の目を見るという発想がなかったので、人が私の目を見て話してることにすらなかなか気がつかなかったです。また、私はそもそも人と話すことをそれほど楽しいと思いません。本を読んだり、その感想を述べたり、他人の考察を知ったりするのは楽しいと感じるので、人と感情を共有をすることは好きだと思います。ただ、それを直接的に時差なく行うことに魅力を感じません。しかし同時に、集団に属するにあたっては人と上手に話すべきだと思います。なぜなら人と話すことに魅力を感じる人は多いからです。

他にも、学校では人と交流するものであるとか(休み時間は休むのでは!?)子どもは可愛いと思うことが当然であるとか(爬虫類の子どもは可愛いけど、霊長類の子どもはそんなに…)。

普通の人生にあたっては、前提となる嗜好や考え方がたくさんあります。私はその嗜好や考えに乗れないことが多いです。

一体、多くの人はどこで「多くの人」に属せる感覚を身につけてきたんでしょう。もしかして、皆さんどこかで人間講習受けてきてます?私だけ履修忘れて生まれてきた?あれ、あなたも忘れてきたクチですか?

このような常識的な感覚が分からない、という悩みに対しては、精神が幼いままなのが原因だから大人になれというアドバイスがあります。自分の見てきたものが全てで自分と他者の区別がついていない状態にある幼児が、親に要求を満たされなかった体験や異なる環境で育った幼児との確執や和睦を経て自分と他者の境界を理解する(反抗期とかもこの一種と定義されますね)。この過程を経ていないから、健全で年相応の精神成熟が為されていないのだという理論によるアドバイスです。境界を理解できれば、自己を侵される恐怖なく他者との違いを受け入れられ、積極的に社会と関わることに喜びを感じられるようになるという算段のようです。その結果として、多くの人が生きている普通の人生が出来上がる。

確かにそうかもね、と思いあたる節はあるものの、やっぱり納得できないのは「健全で年相応の精神成熟が為されれば必ず普通の人生を送りたくなる」という性善説のような前提です。他者との違いを健全に認識した結果として、他者と同じ嗜好を持つって随分と都合が良い展開ではないですか?多くの人が他者との違いを理解して受け入れているというのであれば、孤立する人間が生じるのはおかしくないですか?大体、人間にはそれぞれ「違い」があるという前提なのに、その「違い」を持った人間が「同じ」方法で健全に育つというのもおかしな話です。

おそらく、この思想は普通の人生を楽しく送れている人にも、そうでない人にとっても都合が良いから流行ったのだと思います。私は健全に育ったから大丈夫、私だって健全に育ってさえいれば。自分が信じられる理由がこじつけられれば、正直何でもいいんだと思います。お金があれば、美しければ、コミュ力があれば…。

でもね、多分、ないんです。決定的で普遍的な理由は。

お金がなくても、容姿が悪くても、コミュ力がなくても、幸せそうな人は沢山います。反対に、お金があっても、美しくても、コミュ力があっても不幸そうな人も沢山います。〇〇がないから不幸なのだと考えるとき、その〇〇があるのに不幸な人の存在は目に入っていますか?目に入れたとして、その人に関しては〇〇はあるけど▲▲がないから不幸なのだと別の理由を作り出しませんでしたか?私はまさにそうして、幸せそうな誰かや不幸そうな誰かに自分との共通点や相違点を探して、私の毎日が辛い理由を導き出していました。

ここまでの文章で、普通の人生が難しいという出発点から幸不幸という話に論点が変わっていることにお気づきでしょうか。脱線してるようにみえて、この二つは私の中で強く結びついています。

すなわち私にとって「普通の人生が難しい」というのも私が不幸な理由の一つだということです。普通の人生さえ送れれば幸せなはずなのに、私は普通の人生が難しいから不幸で辛くて苦しい。普通の人生が送れるタチに生まれていれば、あるいは私を普通の人生に導いてくれる出来事さえあれば。

このような自分でどうにかできない部分に理由や期待を求める考え方に対しては、「悲劇のヒロインを気取って何もしないのは気持ちがいいだろう(けどそれでは何も変わらないから自分でがんばって掴み取れ)」という発破をかけられることがあります。

せっかく人を叱って気持ちよくなっているところ申し訳ないですが、的外れです。私は普通の人生を送りたいのではなく、幸せになりたいのです。幸せの象徴として分かりやすく共感が得られる普通の人生を選んで挙げているのです。普通の人生は手段の一つであって、目的ではありません。だから、手段を達成するために頑張れと言われてもこの人は分かってくれてないな、と思ってそれで終わりです。

おそらく、普通の人生を手に入れたとしても私は辛くて不幸を感じるままでしょう。多分、次は普通の人生ではなくて自分のやりたいこと(夢)を叶える人生を送ればよかったとか言い始めると思います。何故なら普通の人生を手に入れたのに幸せになれないままだからです。不幸であることの新たな理由付けが必要だからです。

多分、私のするべきことは送るべき人生を選択することではなく、私が幸せに感じることをすることなんだと思います。そしたら手っ取り早く幸せになれるはずです。

ところで、私は本を読んだり可愛いものを眺めたりして、それを個人的に文章や絵にまとめて反芻しているときに幸せを感じます。それができると充実していたなと感じます。とても個人的な行動で、とても下手です。何の役にも立ちません。一銭にもなりません。こんな無駄なことをして時間を浪費していたら生きていけなくなると思うと、全然幸せを感じられません。

 

次回、「分からせ」要求について(2021/12/26更新予定)

普通の人生について(やりたいと思えないという観点から)

ここで言う普通の人生というのは、学校や職場に毎日通うことや人と仲良くなること、そしてその延長として家庭を持ち、それを幸せだと感じることです。

私は今まで普通のフリをしてきました(下手なので浮いてますが)。このまま個人的な欲求を我慢して立ち回れば、もしかしたら、普通の上中下のなかの下の上くらいはできるかもしれません。ですが、一生嘘をつき続けるのはハードルが高いです。どこかで矛盾が生じて瓦解すると思います。化けの皮がいつ剥がれて糾弾されるのか、恐れ震える人生。もし剥がれちゃったら、もう生きていけない気がします。だから、定義した普通の人生以外も許されてほしいなと思います。

ところで、どうして普通でないと生きていけない気がするんでしょう。許されないように思えるのでしょう。どうして皆当然のように普通ができて、私たちは苦しいのでしょう。家族からの圧力のせいですか?友人もどきからのマウントのせいですか?世間の目のせいですか?自分の能力の低さのせいですか?

当てはまる顔やエピソードが思い浮かんだ方もいると思います。わたしも色々浮かびました。ですが、聞いてください。どうか、驚かずに聞いてください。

それ、あなたを否定するものじゃないです。

いやいや嘘でしょ馬鹿言うなと思いますよね。めっちゃ圧力感じますもんね。分かります。自分だけが何かを間違っていて、他の人たちは大正解を選べる大正解人間なんだと思ってました。けれど、"普通"に執着し続けて、"普通"を近くで見続けて気づいたことがあります。

"普通"をやりたい人、多いです。

何を当たり前のこと言ってるんだと思われるかもしれませんが、これは大発見です。

我々は"普通"を常識だからやらねば、あるいは出来て当然だからやれないのはおかしい、と考えていますが、多くの人は"やりたいこと"がたまたま今の時代の"普通"の範囲にあります。やるべきことだから多いのではなく、多いことが"普通"と呼ばれているのです。だから、私たちは"普通"を思うと元気がなくなるのに、多くの人は"普通"を目指すと元気に過ごせるのです。やりたいことに邁進してるならそりゃ元気出るわ。ついでに、社会制度も"普通"を念頭に出来ています。だってやりたいことやって安定してるとか最高じゃないですか。望む人数が多い(支持を受けやすい)部分をターゲットに制度が作られているので、その層に入るのなら安定して生きやすいはずです。

ですが、"普通"は時とともに移り変わっています。たった30年遡るだけで、女性は一人で旅行に行くことができなかったらしいです(自殺志願者だと思われてホテルが泊めてくれなかったそうです)。その前は働くだけで奇異の目で見られたし、さらに遡れば男女関係なく生まれによって生き方がほぼ固定されてました。武士の子は武士だったし、町人の子は町人でした。選挙権だって、日本史の中でみれば手に入ったのはめちゃくちゃ最近です。1889年、200年経ってないです。この時はセレブ男性しか権利をもらえなかったので、今と同じように年齢だけで権利が得られるようになったのは1945年です。1945年は初めてのゴジラ映画が放映された年です。こう聞くと、すごく最近な感じしません?けれど、私からしたら選挙権がある状態って普通です。一人で旅行に行くことも、働くという選択肢があることも普通です。

今普通だと思っていることは、かつて普通ではなかったことです。長い時間をかけて当時の普通の概念を変えて普通に"した"ことです。私たちが出来ない、あるいはやりたくない"普通"も、この概念を変え続けて普通に"した"ことの範疇に入るのだと思います。

なので、別に義務ではないです。望む未来のために普通の概念を変えた人々に敬意は払うことは忘れないようにしたいですが、だからといって必ず今の"普通"の範疇に入らなくてはいけないわけではないです。制度があるからやらなくてはいけないわけでもないです。ただの選択肢です。

それに、この"普通"の選択肢が生まれたことで、少なくとも私は学校に行けたし、強制的にお見合いさせられることはないし、経済的に自立することのハードルも低くなりました。私の望むことが完璧に"普通"にはなってはいないけれど、大正や昭和と比べると射程圏内に入りつつある気がします。だから、概念を変えてくれたことには敬意を払うべきだと考えています。今は、概念をさらに細分化しようとしている時代なんです。きっと。過渡期なんです。

それに、多くの人が信じていて私も信じている普通があります。例えば、出掛けた先で殴られないとか寝てる間に家が解体されたりしないとか(これらも実は絶対ではないですよね)。だから、現代の普通を批難したり、憎んだり、呪詛を唱えたりすることは、あまり生きやすさにつながらないのかなと思います。だって普通は罪ではないから。そして、普通じゃないことも罪ではない。

普通、普通じゃないというのは、何を当然と信じるかという選択にすぎず、であれば、選択をせず選択肢を批難するのではなくて、何を信じるか自ら選択する勇気を持つべきなのではないでしょうか。

いやそうは言っても、「友達いないとかヤバくない?」とか「いつ結婚するの?」とか「家族養えるような職に就きなよ」とかいわゆる普通を選ばなかった(選べなかった)ことに対して圧力をかけられるじゃん!辛いじゃん!となりますよね。このような発言は総括&通訳するとどうなるかというと「やりたいことやりなよ!なんか出来てなさそうじゃん、大丈夫?」です。

これらを私個人としての言い方をするならライブ行かないの?なんで?人生楽しい?」となります。けれど私はそんな押しつけをしません。なぜなら、生で聴く音楽に興味がある人もいればない人もいるということを、私は知っているからです。

現代の"普通"を望む人たちは、この押しつけに自覚を持つことが難しいです。なぜなら、何度も言いますが"普通"をやりたい人が多いからです。人数が多いゆえに必然的に人生で出会うサンプルも"普通"を目指す人が多く、「もしかして、自分の望みを他の人も同じように望むワケでもないのでは」と疑う機会が少ないのです。逆に、望むことが"普通"の範疇から外れていた人は、自分の望みに疑いの目を向けがちになります。自分の思考を強化できるサンプルが少ないからです。なので、自分にとっての普通を他の人に押し付けるのはやめましょう、とか人それぞれ普通は違います、いう議論はいつまで経っても平行線になるのだと思います。だって大抵は押しつけにならないから。単なる"共通の話題"にしかならないから。

もう、ここまでくるともはや"普通"って言い方が間違えてませんか。

広辞苑によると「普通」は

特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。

とあります。

"普通"は変わりゆくのに普通と呼ぶのですか?かつてありふれていなかったことなのに"普通"?どちらかというと、「常識」という言葉を使ったほうが適切かもしれません。例えば、「日本で暮らすなら日本語を話すのが普通だ」と言われたらそうかも、と感じますが「日本で暮らすなら日本語を話すのが常識だ」と言われたらそれは乱暴では?と言いたくなりませんか?ただ単に数が多いこと(普通)と、特定のコミュニティでの共通認識(常識)を混同して話をするから、ややこしいことになるのではないでしょうか。

自分の望みに疑いをかけたことがない人は、「常識」と「自身の考え」が無意識下で癒着していて、自分の考えを自分個人の考えだと感じてすらいないと思います。多分、健康な人が寝る時にいちいち呼吸を意識しないのと同じレベルで意識していないです。自分の考えについて疑ったことのある人と疑ったことのない人では、疑ったことのない人の方が強いです。議論の余地があるとすら思わないので、取りつく島がないのです。

そういうわけで、現代の"普通"で満たされている人々に別の考えを認めさせることは、エネルギーを使う割に実りがないように思います。

大体、私たちがやりたいのは私たちの考えを誰かに認めさせることではなくて、劣等感を抱かずに過ごすことでないですか?

もちろん、社会制度的にやりたくてもできないことにされていたり(人種差別とか性差別とか)、出来なくて当然のことが配慮されてなかったり(障がいや貧富の差に対するフォローとか)することもあって、それは社会の常識に対して異議を唱えていく必要があります。今の常識は、"望む人"が"主張した"ことで作られたものです。どれだけ数がいても、主張しないことには何も変わりません。

私が実りがないと言っているのは、あくまで「一個人に」「認めさせ」ることに力を注ぐことについてです。

ということで、次回から2回にわたって主張しどころの見極めについて考えようと思います。

次回、「分からせ」要求について(2021/12/26更新予定)

ひとまず4年間

どこかに書いておかないと、このまま何もしないで無為に時間を過ごし続け、4年後も今と同じ状態(時間が減ってる分だけ悪い状態ですね)で同じことを夢想していそうなので書きます。

今は朝起きた瞬間に頭に浮かぶ文章が「はやくしにたい」で、それをバレないように誤魔化しながら生きています。

大人になると、能動的に動かないと変化がありません。子どものうちは入学とか受験とか就職とか時間と共にほぼ自動的に色々な環境変化イベントがありますが、就職するタイプの大人になった場合、何もしなければ次は定年退職までノーイベントです。人によっては不本意な失業イベントがあるかもしれませんが。

学生のころは、あと1年我慢すればこの環境から離れられる、次はうまく行くかもしれないし、という先延ばし思考を希望になんとかやってきましたが、我慢は出来ても次がうまくいったことは一度もありませんでした。どこにいても居心地が悪く、はやく人生終わらないかなと思ってきました。

今までの行いからすると次にやるべきことは、結婚子育てか独身貴族出世競争な気がするものの、どっちをやったとしても最期の瞬間「ああつまらなかった、やっと終わってよかった」と思うことが想像に難くありません。そんな感想を抱けるほど穏やかな最期を迎えられるならまだマシで、その前に選んだ環境に耐え切れなくなり、全部投げ出して全世界に土下座する気持ちで退場するかもしれません。このパターンは後始末で周囲に迷惑をかけまくるのでやめたいです。

できることなら、朝起きたときは「今日は何をしようかな」って思って、最期には「けっこう面白かったな」と思えたら。心穏やかに過ごすことができたら。ささやかな願いのようで、これは億万長者になるよりも、独裁者になるよりも難しいことなんじゃないかと感じています。

多分、私は普通の人生を普通に生きられない人間です。もっと早い段階でそれを認めて、安定と普通から外れる恐怖と戦いながら生きていく決断と抵抗をしないといけなかったです。現在のこの"どうにも生きていけそうにない"という感覚は、決断と抵抗から逃げたツケが回ってきている状態なんだと思います。

なので、遅いかもしれないけれど、今から決断していくことにしました。あえて"抵抗"を外したのは、私はすでに大人になってしまったので、抵抗する相手がいないからです。子どもは実質大人に命を握られている状態なので、自分の決断を認めてもらうための抵抗が必要です。しかし大人になってしまえば何をしても自己責任で突き放されます。良くも悪くも。

ついでに言っておくと、子どものころに選ばされた決断はどんなに本人にとって不本意なものでも、大人からは本人の決断として美化されます。なので、抵抗できる人は早めに抵抗しておいたほうがいいです。大人になっちゃった人は、あの時は不本意だったと今更主張しても相手は聞く耳を持たないしなんとかしてくれることもないので、諦めて今現在を自分の選択でどうにかしたほうが早いです。

私は決断と抵抗から逃げた結果、一人でご飯を食べていく分にはなんとかなりそうな環境にいます。このご時世にありがたいことだと思います。なので、手に入れたものは活かしつつ4年をかけて「生きていける」ようになることを目指します。食べるだけじゃ生きていけない。私は欲深いのです。

ちなみに何故4年かというと、今携わっている仕事が4年後には落ち着くので仕事面でどんな決断をするにしてもタイミングがよいことと、明日から変わるゾ!いや、むしろ今日からDA!とか言い出すとうまくいかないと思うからです。今日から変わるとか、それは変わっていないと思います。無理をしているだけです。無理は続かないです。

そんなわけで、今後何記事かは今まで考えてきたことを書こうと思います。私は同じことを何回も考えてループしてしまう癖があるので、書き出して一旦自分と切り離す作戦です。

 

次回、2つ同時に更新します(2021/12/18更新予定)

「普通の人生について(やりたいと思えないという観点から)」

「普通の人生について(できないという観点から)」