なくてもこまらないけれど、

個人的な事情に個人的に折り合いをつけるブログです

存在を示すための主張

他人の言うことを間に受けてとりあうことは義務ではなく、自分がすることに関して、他人を納得させる必要はないと私は考えています。

ただその一方で、他人は集団になると個人の望みを奪いうるので、完全無視を決め込むのは危険だとも思っています。

例えば、あなたが絵を描くのが好きだったとします。あなたは絵を描くと楽しい気持ちになれます。しかし、あなたが楽しい気持ちになろうが、他人は別に楽しい気持ちにはなりません。他人は、あなたにお金をたくさん稼げることをしてほしいと思うでしょう。あるいは、他人に尽くすことに時間を使って欲しいと思うでしょう。この要求が、あなたの親や恋人、夫あるいは妻、子供など、極めて個人的な関係においてなされるなら、逃げるなり無視するなり隠れて続けるなりして、絵を描くという選択が粛々ととれるかもしれません。

けれど、「絵を描いた人間は問答無用で無期懲役にして良い」という法律が作られたらどうでしょうか?あなたは絵を描くことを続けられますか?そんな極端なこと起こるわけがない、と思いますか?

私は起こりうると思っています。何故なら、あなたの親や恋人、夫あるいは妻、子供などが集まって構成した社会で法律は定められるからです。「多くの人間が」「望んでいるようにみえる」考えが社会を構成するからです。何故カッコ書きで回りくどい書き方をしたかというと、このカッコ書きの部分は幻だからです。

あなたは周囲から糾弾されても粛々と絵を描きます。また別の場所で、別の誰かが隠れて粛々と絵を描きます。社会は無期懲役の方向に進みます。何故ならあなたも誰かも、他人に臆することなく絵を描きたいと主張しないからです。無期懲役に反対せず、ただ粛々と描くからです。粛々とやっていれば分かってくれる人もいる、という考え方もありますが、分かってくれる人というのはそもそも同類で、無期懲役派が鞍替えしたものではないでしょう。分かってくれる人がいたとしても、身内で分かり合っているだけで明確に無期懲役派に反対しない限り、無期懲役を望んでいる人数の方が多くみえます。そして、「多くの人間が」「望んでいるようにみえる」ことが実現されます。本当は粛々と絵を描いている人間の方が多かった可能性すらあるのに。

すなわち、「社会」に対しての主張に時間を割くことが、ときには必要だということです。無期懲役にするか否かいう強い権限の議論になる段階においては、かなりの勇気がないと主張しづらいので、もっと手前の、絵を描く時間と同じ分だけアルバイトをしましょうとか、努力義務で絵を描く時間は1週間に1時間程度になるように調整しましょうとか、きな臭い提案が出てきた段階で、そんな提案は受け入れられないと主張して相手を足止めするべきだと私は考えます。

ちなみに、今回挙げた例はあなたが迫害される側でなおかつ相手方が現代日本の倫理観では過激とされる思想を持っている、という公平性に欠ける例です。あなたに同意してもらいやすいようにこのような例を使いましたが、あなたや私が迫害する側であり、現代日本の倫理観に沿っているからそのことに気がついていないというパターンもありえます。例えば現代日本は、人を殺すことが何よりの生きがい、という人にはすごく暮らしにくい環境のはずです。戦国時代に生まれていたら大活躍だったかもしれないのに。

ただ、望みがなんであれ、私が言いたいのはあなたや私の望みがたとえ少数派だったとしても、自分以外の誰も望まないことだったとしても、それが望みであると主張することは悪ではなく、してもよい(もちろん、自ら"しない"を選択してもよい)ということです。社会のルール、すなわち善悪は人間が定義したものに過ぎず、人間という生き物の頭の中にあるだけの幻想で、いくらでも変わりうるからです。理性は、どの幻想のなかで生きていくかを選んだその結果に過ぎないのだと思います。

しかし厄介なのは、幻想同士が相反することが多々あり、そうなると人は相手を滅ぼしにかかることがあるという点です。そして、個人が相反する相手を全て滅ぼすことは時間的に不可能なのに、集団になるとそれに近いことができてしまうことがあります(戦争や植民地支配はその一種だと思っています)。しかし集団で滅ぼそうとしても、その経緯は何某かの形で残り、完全に消すことは不可能です。形跡すら消そうと躍起になっても、本当に完全に滅ぼしたかどうかを確かめる術はありません。滅ぼしたつもりでも、新たに生まれてきた人間がかつて滅ぼした人間と同じ望みを持つことだってありえます。争いはいつまで経っても終わりません。自分が滅ぼしたい相手が滅ばないと寝られないというのなら、その人は一生安眠できないでしょう。

だから、相反する相手のことが好きじゃなくても、分からなくても、相手の主張が「存在すること」だけは互いに受け入れて、共存する方法を考えることが、穏やかに生きるにあたって重要なのではないかと思います。もちろん、24時間それに時間を割くと疲れてしまうので、適度に休憩をしながら。

主張しないということは争わない優しさではなく、相反する相手を無視して存在を認めないという行為にもなりうるすると、やはり使い所は意思を持って選択するべきだと思います。

最後に、過激な例を挙げた以上は個人的な見解(この文章自体が全て個人的な見解ではありますが)を述べます。人を殺すことは殺した相手の望みを永遠に奪うことで、"相手の存在を認める""譲歩しあう"ことが絶対に成り立たず、私の考えた幻想のなかに収められない行為です。生死は避けられない絶対に"在る"事象で、人は幻想で生死を見ないようにしています。だからこそ、幻想の範疇で語ることができないのだと思います。

しかし殺意も実は幻想なことがあるかもしれません。例えば、過去のトラウマから人を傷つけるのが生きがいだと思い込んでいる(本当は殺したいわけではない)、と思えればそのトラウマを寛解することで殺さずに済むかもしれません。共存が難しい幻想を捨てて「新しい幻想を持つ」手伝いをすることが心理学やカウンセリングの役割なのではないかと思います。

この考え方にも乗れない、本当に純粋な殺意があるとすれば、今の私の考えられうる範囲では、それはもう人間の形をした災害と称するしかありません。これは嫌です。自分が出会ってしまったときに、残念でしたね、避けられないことなので諦めてくださいなんて言われても納得できないからです。ですが、自らを災害と称する人間がいるとしたら、それは詐称です。"ただ在る"だけの災害は、自身をそれと認識することはできないはずです。自身の存在を認識して定義できるなら、多分それは人間です。

この問答には気持ちの良い答えがなく蛇足です。ですが、ちゃんと書かないとこの記事全体が都合の悪い部分を見ない綺麗事の上滑りになるので書きました。

次回、主張した時に立ちはだかる壁についてです。

「価値と存在意義について」(2022/1/9更新予定)