なくてもこまらないけれど、

個人的な事情に個人的に折り合いをつけるブログです

価値と存在意義について

今日は、「あなたは劣っているから価値がない」と言われたときに、劣っていると言われた部分を改善したり、別の側面から優秀さを示したりして「私は劣っていないから価値がある」と反論することの窮屈さについて話をします。

具体的な例を一つ挙げると、容姿を嘲られた人が美しくなることで嘲った人を見返す、あるいは知性や財力など容姿以外の別の価値をもって存在価値を示す行為が今回の話の主題です。誤解のないように先に書いておくと、私はどちらの戦い方も否定しません。どちらにしても、他人から受けた存在に対する否定を跳ね返す精神と努力のいる尊敬に値する行為です。

ただ、どちらにしても「劣っていると価値がない」という一つの世界での出来事に過ぎないように見え、私にとっては何の希望にもなりません。

何が言いたいかというと、いくら美しくなろうが、賢くなろうが、裕福になろうが、もっと美しい、賢いあるいは裕福な人間が眼前に現れたとき、私の価値はまた無くなってしまうということです。また、この土俵のうえで戦うと決めたとき、同じ土俵にあがろうとする人が現れたら?すなわち新たに"価値のある人間"になろうとする人が現れたら、私はその邪魔をせずにいられないと思います。その人が私の選んだ価値観のなかで私より優秀になってしまったら、私の価値が無くなってしまうからです。

「自分に価値が無いということを受け入れられない」ということが主題であって、私は別に他人と戦いたいわけではありません。それでも、戦わなくてはならないと感じます。

この個人的な感覚を拡大解釈するならば、人種や性別などの生まれた瞬間から変えられない要素に紐づく差別は、こうした自らの価値がなくなる不安から生まれるものなのではないかと考えています。生まれた瞬間から変えられない要素によって決まるのならば、"持っている側"に生まれてさえいれば一生安心です。自らの価値を脅かすような考えに同意することはないでしょう。もし価値が脅かされているのならば、それは"持っていない側"が不正に奪い取っているのだ、と考えると思います。日本の憲法に"子どもに教育を受けさせる義務"があるのは、義務にしないと、先に生まれた人間は自分の立場を優位にするために教育を受けさせないからだと思います。わざと弱い者を作り出し踏み躙ることで、自分の価値を保とうとする自作自演を行うのでしょう。

 

話を個人的な範囲に戻しますが、今はインターネットのおかげで(せいで)いくらでも優秀な人間が見つけられてしまいます。クラスで1番だったとしても、世界規模で考えたら全く価値のない役立たずかもしれません。世界一になるには戦う人間が多すぎるし、こき下ろして邪魔をするにしても対象となる人間が多すぎます。認知できる世界が広くなったがために、永遠に安心することができなくなってしまったように感じます。私が幼かった頃、ゲームはCPUの設定「すごくつよい」に勝てればそれで満足できたのに、今はインターネット対戦で上位になれないという理由で、そのゲームが好きであることすら口にできなくなりました。

 

「あなたが存在しているだけでうれしい」という、存在の全てを受け入れるいわゆる"無償の愛"ですら、暗に「あなたの存在はわたしを喜ばせるから価値がある」という人に快感情を与える能力の優劣に依存しています。この存在意義に頼って生きている人は、愛を注いでくれる人を失わないために、その人の価値観に沿って生きていくのでしょう。

 

なぜここまで価値の有無に執着するかというと、価値と存在することの正当性が紐づいているからです。美しければ美しいことを価値とする空間に存在することが許され、賢ければ賢いことを価値とする空間に存在することが許されるからです。怖くて服屋に入れないとか、入試に落ちたことで部屋から出られなくなるといった現象は、価値がないと感じることで、存在の正当性(存在意義)を証明できなくなり、辻褄を合わせるために自らの姿を消そうとする心理が働いた結果ではないかと推測しています。

 

存在意義を何某かの価値の有無に頼る限り、生きている間はずっと証明し続けなければなりません。それができなくなったときは姿を消さなければならないからです。広く相対的な世界で絶対に脅かされない価値を手に入れることなんて不可能なのに。

 

ただ、価値を手に入れなくとも安心を得る方法はあります。

 

それは、優秀な人間の価値、すなわち存在意義を担保する側の人間になることです。優劣と存在意義が紐づいていて、存在意義は"誰かが価値があると認める"ことで生じるというのなら、必ず認める側の人間が必要です。誰かの存在意義を担保するという役割を担うことで、自らの存在意義を手に入れることができます(このコンテンツが存在できるのは自分が応援しているおかげ!)。聴きもしないCDや開けもしないグッズを買うのは、この価値観によるものだと思っています。私自身のことを言っています。消費することに存在意義を見出すことは社会経済的にも"役に立つ"ため、推奨されます。

 

多くの人間が当然のように時間をお金に変えるのは、時間(生命)は、そのあとお金を通して消費することで存在意義となるからです。死ぬまで消費し続けることで、最期まで存在意義を失わずに生きていけます。このひたすら消費することへの反論として"人は自分のためだけ(消費するだけ)では生きられない"といって、身近な他者へ時間を使うことを推奨する考え方もありますが、コンテンツが身近な他者に変わったにすぎず、根本は同じです。おそらくそう主張することで、主張した人が時間を使ってもらえる立場(コンテンツでいう、優秀な人間側)になれる可能性があるので持て囃されるのだと私は解釈しています。

 

優秀な人間側に収まれる人数が限られている以上、価値と存在意義が紐づいている世界での汎用的な模範解答は「消費により存在意義を得ること」になるのだと思います。

 

しかし、私はこの模範解答にも疲れてしまいました。これも永遠の安心ではないからです。何故なら消費して価値を保証してコンテンツの価値が上がれば上がるほど、コンテンツを支持する人間が増え(価値=支持する人数なので逆説的ですが)、1人あたりの存在意義が下がります。駆け出しアーティストのファン10人のうち1人がファンをやめたら影響は大きいですが、それが100万人のうちの1人になったとき、影響は軽微になるでしょう。それを恐れて次々に新しい消費の対象を見つけて、消費してを繰り返すことに疲れてしまいました。そうまでして存在意義を得なくてはいけないのは何故でしたっけ。ああ、価値があれば存在意義があるということは、存在意義があるということは価値があるということになるからか。

 

存在意義を失うのが嫌で価値を求めるのに、価値があることが存在意義になる。この価値と存在意義の関係は破綻しているのだと思います。

 

そもそも、"存在"自体が人間の作り出したものではありません。人間は人間を産み出せますが、その仕組み自体は人間が作り出したものではなく、地球と太陽の距離や遺伝子の突然変異などの事象の積み重ねに過ぎません。人間以外のあらゆる生物も、生物以外のものも、人間が作り出したものではありません。それなのに、どうして人間がその価値と存在意義を決めるのですか?価値とはなんですか?どうして存在意義がなくてはいけないのですか?

 

私が何より恐ろしく、怒りを感じるのは、明らかに"そんな価値はない"人間が、"価値がある"人間のように振る舞っている、あるいは扱われている姿を目撃することです。そしてそのとき、その分をわきまえない人間は、"価値"という概念を意識しておらず"そう"であることが当たり前だと考えているように見えるのです。「勝てない」と思います。勝てないのは、相手が土俵に上がっていないからです。私は土俵から出られないのに、相手はどこまでも遠くに歩いていける。この恐怖や怒りは、原始的なものに対する畏怖の念でもあるかもしれません。

 

価値の有無どころか、価値という概念自体が実はこの世界にないのだとしたら。存在は単なる存在に過ぎず、そのことになんの意味も意義もないとしたら。

 

そう考えたとき、劣っているからとやめたことをやめた理由を失ったように感じます。

 

次回、「精神は万能ではない」(2022/1/16更新予定)