なくてもこまらないけれど、

個人的な事情に個人的に折り合いをつけるブログです

何故孤立が怖いのか

端的にいうと、死にやすいからだと私は考えています。

まず物理的に死にやすい。自宅で体調を崩し倒れたとき、人と繋がりがあれば早く発見され助かる確率が高いです。しかし孤立している人は発見されないので助かりづらいです。極限状態においても、優先順位が下げられると思います。知らない人と友人が同時に崖から落ちそうになっているとき、知らない人から助ける人はいないと思います。

さらに精神論的にも死にやすい。物理的な死が訪れたとしても、人の記憶のなかで人は生き続けるという考え方があります。これは遺された人がその悲しみに折り合いをつけるための考えという面もありますが、一方で物理的な死は死ではないという死を遠ざけるための考えでもあると思います。自分のことを憶えている誰かが生きている限り自分は生き続け、そして憶えていてくれた人がまた誰かの記憶に残ることで間接的に自分も生き続ける。そうして永遠に生きられるのです。孤立している人はこの考えにおいても死にやすいです。そもそも人の記憶にいないので。残ったとしても、それは後始末で迷惑をかけられた、といった記憶となる確率が高く、悪い人間として記憶の中で生きることになってしまいます。孤立を恐れるときというのは、暗に死ぬことか悪人になることを恐れているのではないでしょうか。

しかしこの精神論は、人間が希望を持つために考え出したものです。もし何をしても最後には死んで何も残らないのだとしたら、何をしても何もしない場合と結果は同じです。すなわち生きている状態と死んでいる状態は実質変わらないということです。それなのに何故か物理的な死を避けたがる人間がその理由を求めて、生と死の差別化を試みたことでこの精神論が生まれたのだと思います。なので、孤立が恐ろしいのであれば、人との繋がりを生き残る条件としない別の精神論で生きればいい…

なんて、話は単純ではありません。

たとえ今現在孤立しており、誰の記憶にも残らず死ぬ可能性が高くとも「孤立さえ解決すれば」生き残れると考えれば希望となります。原因が分からない不幸よりも原因が分かる不幸の方がマシでしょう。「これのせいで辛い」という人間から「これ」を取り上げる行為は、希望を奪い取る行為になるかもしれません。ですから、物理的な生命の危機(一週間何も食べてないとか、殴られて骨が折れているとか)には躊躇なく手を差し伸べても支障はないと思いますが、精神的な生命の危機に関しては外部が助けることはできないのではないかと思います。できるのはせいぜい、他の選択肢を見せることくらいです。最終的には危機に陥っている自らが納得した精神論を選ぶしかありません。もしかしたら、今の希望で十分なのかもしれないですし。

そういう訳で、私は「孤立さえ解決すれば」を希望にして生きてきていた人間なのですが、薄々、孤立が解決することはないということに気づいてしまっています。これはどうせ私に分かり合える友人や恋人などできないという私個人を特殊化した諦観ではなく、そもそも人間同士が完全に分かり合っているかどうか確かめる術はないという観点からの気づきです。たとえ同じものを指して「美しい」と評価したとしても、それが同じように見えているかどうかは永遠に分かりません。私にとっては赤くて丸く見える果実をリンゴと呼んでいるのに、他人には(私の認識と言語に合わせた場合に)青くて四角い果実に見えていて、しかしそれを赤くて丸いと称しているかもしれません。それでもその果実を「赤くて丸いリンゴがある」と言葉にする以上、2人の認識の違いを浮き彫りにすることはできないのです。

つまり、孤立を解決したというのは、そう思い込むことができたということに過ぎません。破れ鍋に綴じ蓋という諺がありますが、自分を破れ鍋だと思い込んで、相手を綴じ蓋だと思い込んでいるだけです。思い込んだまま一生を終えられるなら、それはそれで大丈夫です。綴じ蓋が見つからないことを素直に嘆けるならそれも大丈夫です(見つかったと思ったら解決するので)。例えば親に大切にされているうちに恋人を見つけ、恋人に大切にされているうちに子供をもうけ、自分の寿命が尽きるまで子どもに大切にされれば、孤立に晒されずに夢の中で一生を終えられます。"大切にされないと生きていけない"という無意識の不安から人間は繁殖するのだと思います。上手くできています。けれど、綴じ蓋っぽいものが見つかったとしても、もはやそれをそうだと心から信じられない場合は?

そもそも孤立を解決する目的は何だったでしょう。誰かの記憶として生き残るためです。しかし、その記憶のなかの人間は私とは一致しない可能性があります。同じものを見ていても、同じように見えているかは分からないからです。一致しているかどうか、確かめる術もありません。もはや孤立を解決しても生き残ることが確実ではなくなったなかで、解決のために腐心する意義はあるのでしょうか。たとえ孤立が解決できないまま物理的に死に、迷惑な人だとか惨めな人生だったのだろうと記憶されたところで、それは私自身ではありません。

多くの人に共感されやすいものを好きにならなければとか、反対に自分の好きなことで多くの人に認められるようにならなければとか、孤立を解決するために右往左往する必要性を失ったとき、孤立を解決するための道具でしかなかった身体と心が、はじめて「私」と一つになったような感覚を覚えます。

 

次回、精神的な話題への一旦のまとめです。

「生きていける理由がほしい(2/13更新予定)」

 

以下、余談です。

私は何かうまくいかないと感じる出来事があったときに、自分の身体を殴りつけるという癖があるのですが、そうして生まれる痛みに対して痛いなーと思っている時の感覚と上記で述べている一つになったような感覚は同じような気がします。なんだかしっちゃかめっちゃかになっている感覚が一旦落ち着く感じです。しかし痛みがやがて消えてしまうし、いつでもできる訳ではないし、痣や傷跡は他人に見つかるとややこしいのに対し、孤立の解決の優先順位を下げるほうが持続性高いように感じて、今そちらを試しています。ただ、これは下げすぎると物理的な死が迫ってくるので、夜道はなるべく1人で歩かないとか、崖には近づかないとか、非常食は蓄えておくとか物理的にできることはしておいてもいいのかなと思います。