なくてもこまらないけれど、

個人的な事情に個人的に折り合いをつけるブログです

生きていける理由が欲しい

朝起きたときに、今日も始まってしまったと思います。誰にも影響を及ぼさず、私の評価も下がらない手段で、早く人生が終わればいいのにと思います。私がふと消えて最初からいなかったことになって、何事もなかったかのように周囲の人生が進む手段があるのだとしたら、私はそれを選びます。毎日生きることを重圧でも快楽でもなく、ただただ当然のように受け入れている人たちは、どうしてそうできるのでしょう。

何故生きていられるのかと問うたとき、いわゆる生き甲斐というものが示されます。夢、家族、仕事、趣味…etc「それ」があるから生きていられる、あなたも「それ」を持つといい、といわれます。

私が不思議でならないのは、生きていける人たちが自身の生き甲斐は絶対に無くならないという前提に立っている…どころか、失うという発想がないことです。私の視点からすればどれもいつか失いうるものでしかなく、何を選ぼうが生きていける理由にはならないように感じます。生き甲斐を持つ人が「それ」は必ずずっとあると信じられるのと同じくらいの強さで、私は全ては必ず無くなりうると信じているのだと思います。

有ったり無くなったりすると感じてしまった時点でおそらく、生き甲斐で生きていける人になることは不可能です。生き甲斐で生きていける人は、有るとか無いとか感じずに生き甲斐を感じているからです。生きていける人と生きていけない人は、同じ地面に立っているのに、異なる世界に住んでいます。しかし有無を意識していないのに、何故生き甲斐を持っていると思えて、持っていなさそうな人に対して持てばいいと勧められるかというと、皮肉にも生きていけない人が生きていける(ように見える)人に「どうして生きていけるのか」と尋ねるからです。尋ねられたから、生きていける人はどうして自分が生きていけているのか過去から理由を類推して答えます。生きていけない人間が表出している結果(生きていける)をみて、理由を尋ねるから生き甲斐という理由が示される。すなわち理由が先にあって結果が出るのではなく、結果が先にあって後から理由がつけられるのです。本当にそれが理由かなんて検証のしようがないのにも関わらず、生きていけない人間はその理由を盲信します。そして、自分が今生きていけないと感じているという結果から、過去に理由を見出します。

そうしていると、「今」はただの過去の結果にすぎなくなり、過去でしか「今」を変えられないことになります。私たちが干渉できるのは「今」だけであるにも関わらず。

歳を取れば取るほど人間が行動を変えなくなるのは、「今」1を積んだところで過去の10000が大きすぎて、「今」の結果への影響が限りなく小さくなるからだと思います。過去が10しかないのなら、+1の影響は大きい。過去が増えるほど理由が増えて、「今」の結果としての性質が強固になります。そうして人間は動けなくなるのです。歳をとらなくても、過去から理由を類推するようになれば遅かれ早かれそうなるでしょう。

しかし理由が何よりも重要だと考えて盲信していたのに、今まで確信を持っていたそれらが、今見えている(と思っている)結果に都合がいいものをピックアップした自作自演だとしたら?私は途端に滑稽に思えてしまいました。生きていけないと感じている私は、辻褄合わせをするために死ななければと考えますが、理由があって生きていける人間になれるから生きていけるわけではなく、生きているという状態が先にあるならば、「今生きている」という事象のほうを基準に据えるならば、生きている状態で生きていけないと感じることのほうが辻褄が合いません。では何故私は生きていけないと感じるのかというと、生きていける理由がこの世界にはあって、私はそれを持っていないからでした。その理由自体が後付けで存在しないとしたら、私が生きていけないと感じる根拠がなくなってしまうのです。

類推することが滑稽でしかないのなら、次に私が検討すべきことは、「今」を過去と連接性のある結果としてではなく、「今」それだけを偏見なしに見ることではないかと感じています。

「今までこまめに片付けをしてこなかったから(過去)手のつけようがないくらい(10000に対する1)散らかっている」ではなく「今って散らかっているな」。「私は人間社会に対する理解が遅く簡単に友人が作れたであろう環境で頑張らなかったから(過去)友人がいないのだ。もう簡単な環境は手に入らないし、一生駄目なんだろう(今は常に過去の結果に過ぎない)」ではなく「私って今友人いないな」。過去と未来を今から切り離すことで、対峙する範囲が少なくなります。膨大な時間には圧倒されてしまいますが、「今」ただその一点を相手にするならば、今の私が関与できる気がするのです。

この思考実験が功を奏するのか否かは分かりませんが、何せ理由を追い求める癖のある人間が今まで信じていた理由を成り立たないと感じてしまったのなら、もうその理由では"生きていけない"のですから、他の方法をとるより仕方がありません。

1番最初の記事に書いた、決断と抵抗すら実は仰々しすぎる、と今は感じています。

次回、「出典」(2022/2/20更新予定)

 

以下、本筋に入れたかったけれど浮いてしまった話です。

生きていけない人間が生きていける人間に理由を尋ねるのだとすると、最初に両者に分かれるタイミングはどこにあるのでしょうか。産声を上げた瞬間は、まだどちらでもなさそうですが、しかし本能的に、親に大切にされないと生きていけないという認識が多くの場合存在するはずです。そうでない赤子は死ぬことが多く、遺伝子が残ることが少ないと考えています。しかし大人になればこの生きていけない理由は無くなっていき、理由から解放されるはずなのです。ですが、先に産まれたもはや生きていけない大人たちが、自身の子を生きていける理由にして依存したり、子が生きていけるようにと"これがあると生きていけるよ"と有無とセットで生きていける理由の存在を教えたり(最初から生きていけるのに、なんという余計なお世話!)するために、子は理由がないと生きていけない気がしてくるのではないかと思います。大人たちも最初は生きていける人間であったはずですが、別の誰かによって生きていけない人間にされたのでしょう。今生きていける(ように見える)人間もほとんどが、理由を持っている側にいるから自分は大丈夫と認識している偽物でしょう。死にたがりが受け入れてくれる恋人が出来て毎日幸せですとか、子どもを持ってこの子のために死ねないと思うようになりましたとか、趣味の仲間と繋がって生きれるようになりましたとかいうのもそれです。恋人を失ったらまた死にたくなるし、子どもが思い通りに育たなければまた死にたくなるし、仲間と仲違いしたらまた死にたくなるでしょう。本当に理由に有無がない世界で生きている人間は希少かもしくは絶滅したかもしれません。ここまでくると、最初に生きていけなさを感じてそれを伝承した「生きていけない」の始祖が大変気になりますが、それを結果からの類推…すなわち先入観なく探究することはまた長い道のりになりそうなので、本筋の思考実験のお供程度にやっていきたいと思います。