なくてもこまらないけれど、

個人的な事情に個人的に折り合いをつけるブログです

普通の人生について(できないという観点から)

私は、普通の人生をとても難しいと思います。

ここで言う普通の人生というのは、学校や職場に毎日通うことや人と仲良くなること、そしてその延長として家庭を持ち、それを幸せだと感じることです。

できるできないは一旦おいておき、"人間は本能的にこれらを心地よく感じ求める"という前提は共通認識として存在しているように思います。多くの人が幼い頃から特に疑問を持たず、そこそこ楽しんでこれらを行なっているように見えます。また、そうしたいのにできないという場合はできないことに劣等感を抱くことになるようです。

一方の私はというと、これらを目指すにあたっての知能がとんでもなく低く、できないうえにそもそもの必要性もよく分かってないという状態です。

例えば、多くの人が当たり前のように行なっている「人と話す」と一言で表現される行為でも

・ガン見にならない程度に相手の目を見る

・その場に適した声の大きさで話す

・話の内容や相手の反応に合わせて表情や抑揚をつける

など、実は話す内容以外にも考慮すべきことがたくさんあります。私は人の目を見るという発想がなかったので、人が私の目を見て話してることにすらなかなか気がつかなかったです。また、私はそもそも人と話すことをそれほど楽しいと思いません。本を読んだり、その感想を述べたり、他人の考察を知ったりするのは楽しいと感じるので、人と感情を共有をすることは好きだと思います。ただ、それを直接的に時差なく行うことに魅力を感じません。しかし同時に、集団に属するにあたっては人と上手に話すべきだと思います。なぜなら人と話すことに魅力を感じる人は多いからです。

他にも、学校では人と交流するものであるとか(休み時間は休むのでは!?)子どもは可愛いと思うことが当然であるとか(爬虫類の子どもは可愛いけど、霊長類の子どもはそんなに…)。

普通の人生にあたっては、前提となる嗜好や考え方がたくさんあります。私はその嗜好や考えに乗れないことが多いです。

一体、多くの人はどこで「多くの人」に属せる感覚を身につけてきたんでしょう。もしかして、皆さんどこかで人間講習受けてきてます?私だけ履修忘れて生まれてきた?あれ、あなたも忘れてきたクチですか?

このような常識的な感覚が分からない、という悩みに対しては、精神が幼いままなのが原因だから大人になれというアドバイスがあります。自分の見てきたものが全てで自分と他者の区別がついていない状態にある幼児が、親に要求を満たされなかった体験や異なる環境で育った幼児との確執や和睦を経て自分と他者の境界を理解する(反抗期とかもこの一種と定義されますね)。この過程を経ていないから、健全で年相応の精神成熟が為されていないのだという理論によるアドバイスです。境界を理解できれば、自己を侵される恐怖なく他者との違いを受け入れられ、積極的に社会と関わることに喜びを感じられるようになるという算段のようです。その結果として、多くの人が生きている普通の人生が出来上がる。

確かにそうかもね、と思いあたる節はあるものの、やっぱり納得できないのは「健全で年相応の精神成熟が為されれば必ず普通の人生を送りたくなる」という性善説のような前提です。他者との違いを健全に認識した結果として、他者と同じ嗜好を持つって随分と都合が良い展開ではないですか?多くの人が他者との違いを理解して受け入れているというのであれば、孤立する人間が生じるのはおかしくないですか?大体、人間にはそれぞれ「違い」があるという前提なのに、その「違い」を持った人間が「同じ」方法で健全に育つというのもおかしな話です。

おそらく、この思想は普通の人生を楽しく送れている人にも、そうでない人にとっても都合が良いから流行ったのだと思います。私は健全に育ったから大丈夫、私だって健全に育ってさえいれば。自分が信じられる理由がこじつけられれば、正直何でもいいんだと思います。お金があれば、美しければ、コミュ力があれば…。

でもね、多分、ないんです。決定的で普遍的な理由は。

お金がなくても、容姿が悪くても、コミュ力がなくても、幸せそうな人は沢山います。反対に、お金があっても、美しくても、コミュ力があっても不幸そうな人も沢山います。〇〇がないから不幸なのだと考えるとき、その〇〇があるのに不幸な人の存在は目に入っていますか?目に入れたとして、その人に関しては〇〇はあるけど▲▲がないから不幸なのだと別の理由を作り出しませんでしたか?私はまさにそうして、幸せそうな誰かや不幸そうな誰かに自分との共通点や相違点を探して、私の毎日が辛い理由を導き出していました。

ここまでの文章で、普通の人生が難しいという出発点から幸不幸という話に論点が変わっていることにお気づきでしょうか。脱線してるようにみえて、この二つは私の中で強く結びついています。

すなわち私にとって「普通の人生が難しい」というのも私が不幸な理由の一つだということです。普通の人生さえ送れれば幸せなはずなのに、私は普通の人生が難しいから不幸で辛くて苦しい。普通の人生が送れるタチに生まれていれば、あるいは私を普通の人生に導いてくれる出来事さえあれば。

このような自分でどうにかできない部分に理由や期待を求める考え方に対しては、「悲劇のヒロインを気取って何もしないのは気持ちがいいだろう(けどそれでは何も変わらないから自分でがんばって掴み取れ)」という発破をかけられることがあります。

せっかく人を叱って気持ちよくなっているところ申し訳ないですが、的外れです。私は普通の人生を送りたいのではなく、幸せになりたいのです。幸せの象徴として分かりやすく共感が得られる普通の人生を選んで挙げているのです。普通の人生は手段の一つであって、目的ではありません。だから、手段を達成するために頑張れと言われてもこの人は分かってくれてないな、と思ってそれで終わりです。

おそらく、普通の人生を手に入れたとしても私は辛くて不幸を感じるままでしょう。多分、次は普通の人生ではなくて自分のやりたいこと(夢)を叶える人生を送ればよかったとか言い始めると思います。何故なら普通の人生を手に入れたのに幸せになれないままだからです。不幸であることの新たな理由付けが必要だからです。

多分、私のするべきことは送るべき人生を選択することではなく、私が幸せに感じることをすることなんだと思います。そしたら手っ取り早く幸せになれるはずです。

ところで、私は本を読んだり可愛いものを眺めたりして、それを個人的に文章や絵にまとめて反芻しているときに幸せを感じます。それができると充実していたなと感じます。とても個人的な行動で、とても下手です。何の役にも立ちません。一銭にもなりません。こんな無駄なことをして時間を浪費していたら生きていけなくなると思うと、全然幸せを感じられません。

 

次回、「分からせ」要求について(2021/12/26更新予定)