なくてもこまらないけれど、

個人的な事情に個人的に折り合いをつけるブログです

自己責任の境界線

個人の気の持ちようだけではどうしようもないこともあります。

どの人種や性別に生まれるかは自分の意思では選べません。後から気軽に変えられる要素でもありません。だからこのような要素で差別をしてはいけません。今の人間社会がちゃんとそうなっているかはさておき、この理屈に公共の場で反対する人は敵が多くなるでしょう。

しかし、誰しもがオリンピックで金メダルを取れるわけでも、ノーベル賞級の研究者になれるわけでも、億万長者になれるわけでもありません…というと、すごい人は努力をしたからそうなれたのだ、努力せずにそんなことを言うなという人が現れます。

さらに規模を小さくして偏差値の高い学校に通うことや有名な会社に勤めることはどうでしょう。必ず個人の努力でどうにかなる、そうなっていない場合は自己責任だと語られがちなように思います。多くの人が進みたがるこれらの道から外れた選択をして失敗した場合も、自己責任と言われます(成功したら努力の人に分類されます)。

しかし、本当に自分で全部なんとかできるものですか?貧乏な家庭に生まれたら塾には通えないかもしれません。就活の時期に偶然大恐慌があって、就職口の募集がなかったかもしれません。全てを肯定して応援してくれる人が身近にいれば、"夢"に向かって諦めずに進めたかもしれません。努力をしていれば上位の人間に入れるから関係がなかったはずだ?努力しなくても金が運が愛があって楽に手に入った人もいるでしょう。努力して勝ち取ったという人は、努力できる環境にあったということを認識していないのではないですか?努力できる人は、私と同じ家庭に生まれて私と同じ性格で私と同じ知能で私と同じ容姿で私と同じ体質でも、努力できるから私と違う素晴らしい人生が送れるのですか?そんなことどうして分かるのでしょう。実験のしようがなく、比較できないのに。

他者に対して自己責任だという人間の発言は根拠がありません。自己責任であると証明する方法がないからです。自分自身で自己責任だと思う場合も同様です。あなたも私も、自分のパターンしか分からないのだから、客観的な証明は不可能です。

しかしこの自己責任論は他人を切り捨てるときに使われると同時に、切り捨てられる側からも支持されているように感じます。まず切り捨てる側が自己責任論を唱えるのは、"自己責任"であれば努力している自分が辛い状況に陥ることが有り得なくなるからです。そして切り捨てられる側がそれを受け入れるのは、自己責任であれば「努力さえすればなんとかなる」という希望につながるからです。何をしたってどうにもならないより、何かをしたら状況が変えられると思える方がマシだからです。全てを環境のせいにしてしまうと、環境が変わるような"救い"が起こらない限り、自分の力ではどうしようもないことになってしまいます。病や事故すら因果応報と称する人がいるのは、自身からそれらを遠ざけるためだと思います。

しかし、生まれた場所、時代、体質…そういったもので全てが決まっているわけではないと言いきれるでしょうか。私自身が決めたと思っていることでも、私を取り巻く環境により"そう"決めることが決定づけられているのかもしれません。そして異なる環境で生きてきた私が同じシチュエーションでどのように決断するか、なんてことは一生分かりようがありません。客観的な証明は不可能です。環境によって全てが決まるのであれば、個人の選択にはなんの意味もなく、何もかもが自分のせいではありません。自分は何も悪くないという希望が抱けます。自分の成功に関して環境が全てだと唱える人間がいないのは、環境は自分では選べないからだと思います。自分の力で守ることができないところに自分の幸福が依存しているなんて考えたくないからです。反対に、現状が辛い人間が環境を重視するのは、環境が原因であればそれさえ解決すれば全てがうまくいくという希望を抱けるからです。

この自己責任か環境かという論争は、真実の追求ではなく、どこに希望を持つかという人間の脳内の信条に過ぎないのではないかと私は思います。答えを1つに絞ることになんの意味もありません。どちらを選ぼうが妄想の域を出ないものです。

だからこそ、その境界線だけは自分で決めるべきだと思います。他人の努力や他人の環境に依存するのではなく。

他人の状態は、自分の境界線を決めるための比較検討材料に過ぎません。色々な努力、色々な環境、どんな人がどこまで頑張れているのか、どんな人がどんな環境をままならないと言っているのか。それらを知ったうえで、自分で頑張ってみる範囲(努力)と諦める範囲(環境)を決めることが重要です。

例えば私たちが同性と結婚したいとしても、今の日本の制度上婚姻届は出せません。制度改正のために世論に働きかけるのか、制度が整っているオランダに飛ぶのか、渋谷区に引っ越すのか、単に恋人と同棲するだけでよしとするのか…日本の制度という環境に対して、何をどこまで頑張るのかは、自分で決めるということです。誰かが制度改正に心を砕いていたとしても、私たちはオランダに飛んでもよく、制度改正の努力をしないことに罪悪感を抱く必要もなく、それと同時に制度改正派に「オランダに行けばいいのに」という権利はありません。

そして決めたなかで頑張ることが辛ければ境界線の調整をしましょう。一度決めたからとストイックにその線を守る必要性はありません。社会や世間といった大きな集団は一貫性を求めてきて、鞍替えすることを批難する傾向があるように感じます。世界中が繋がってリアルタイムで情報が共有できるようになって、どんどん情報が増えていくのに、一度片付けたと思った問題に更新が入ることが許せないのだと思います。終わったことを蒸し返さないでくれという悲鳴なのかもしれません。しかしその悲鳴に、私たちが付き合う義理はありません。

境界線を想像したとき、自分がイライラしたり絶望したりするようなら偏り過ぎていないか疑ってもいいのではないかと私は思います。

今回書きたかったことは以上で終わりですが、最後に一応補足をします。虐待されている幼児や重い病を患っている人に対してこの境界線の話を持ち出して努力や諦めを求めることはお門違いです。妄想で生命の危機は解決できません。また、他人の境界線の位置を勝手に決めて助けることは過保護や過干渉と呼ばれるものです。他人が他人に対して出来るのは、別の境界線の引き方もあるということをそっと見せることだけだというのが、私の今のスタンスです。あなたがどうするかは、あなたの選択次第です。

 

次回、「誰にでも分け隔てなく接するなら何も起こらない」(2022/1/30更新予定)