なくてもこまらないけれど、

個人的な事情に個人的に折り合いをつけるブログです

誰にでも分け隔てなく接しましょう

…なんて道徳、ほとんどの人間は守っていません。

もし本当に誰もが誰にでも分け隔てなく接するのなら、皆と仲良しだと思っていたら私以外の皆で遊びに行ってたとか、あの子とあの子は2人で遊びに行くけれど私とは誰も2人で遊ばないとか、そういうインターネットでよく見かける孤立なんて起こらないはずです。

孤立しない人間は誰にでも分け隔てなく接しますよという顔をしながら、特別を選んでいます。嫌悪を積極的に態度に示さないだけで、好意の方面には当たり前のように坂をつけています。好きだと言われたら誰とでも寝るわけじゃないでしょう?(寝る人は私の観測できる範囲だと、孤立している人です)。好意を示してくれた人の中から「許容できる人」を選んでいるはずです。あるいは、自分から誰を好きになるか選んでいる。

孤立する人間はこの塩梅が分かっていなくて、本当に分け隔てない感情しか他人に抱かないようにしているから孤立するのだと思います。特別を選ばない。孤立する人間に対して、受け身だからそうなるのだ、自分から積極的に相手に働きかけろというアドバイスがありますが、そもそもそれは道徳違反です。悪いことをしなければ報われると思っている人間に対して悪いことをしろという助言は響きません。

自身の周囲に存在する全ての人間を特別扱いすることはできません。差異をつけなければ特別ではないからです。道徳を守る善良な報われる人間であるためには、誰しもを特別にせず、一定の対応をするしかありません。けれど実際は、道徳は守るべきものと言いながら、多くの人は違反をしています。何故こんなことになるのかというと、人間は自分を特別にしたいからです。存在意義が欲しいから、他人の中に自分との類似性あるいは自分に足りないものを見つけてそれを特別にするのです。特別は複数のものがあって初めて成り立ちます。自分という単体だけでは成り立ちません。だから他人で代替するのではないでしょうか。似たもの同士がつるんでいたり、逆に正反対の人間が親しかったりするのはそういう理由だと思います。

道徳は他人に守ることを要求し自分自身は守らないことが当然のものなのだとすると、何故頑なに道徳を守ろうとする人間が生じるのでしょう。道徳を守ることは、違反することとセットで初めて効果を示すというなら、道徳を守るだけの人間は何を求めているのでしょうか。

多分、道徳を守るだけの人間は、そもそも存在意義を確かめなくてはいけないほど自我がないのだと思います。他人と比べて類似や欠落を見出せるほどの自我が。それなのに孤立してはならないという危機感だけはあって、共通認識である道徳を守り続けることで辛うじて他者にしがみついているのではないでしょうか。だから違反する理由がないのです。誰かを特別にしてもいいと言われても、特別にしたい人はいますか?私はいません。類似性も欠落も、無に対しては存在しません。他人にそれらを見出すための元ネタがないのです。

さらに災難なことに、道徳を守り続けることが自我を得る妨げになるように感じます。常に分け隔てなく、相手が不快な思いをしないよう相手が求める範囲で動くのであればそこに自我は必要ないからです。全部相手に合わせればいいのです。しかし、相手が本当に求めているのは自身との類似性あるいは欠落です。無ではそれは満たせず、相手は興味を失います。求められなければ、自我がない人間は何も返せないので関係性は無くなります。「もらうばかりで返さない消極的な人間」はこうして生まれます。なまじうまく嘘がつけたとしても、いつかは破綻するか本物が現れて終わりです。

孤立云々の前に、まだ存在してすらいない人間はどうすれば満されるのでしょう。何故孤立するのか、私に足りないものはなんなのか?それを他人の中に探すのではなく、自身の欲を、自身が何を特別と思うのかをまず感じ取れるようになることが重要なように思います。何が欲しいのか分からなければ、欲しがることはできません。自分は何が好きで何が嫌いなのか、得意なこと苦手なこと、どちらでもないことは何か。これらを知ることで初めて欲しいものが分かるようになり、満たされる方法が考えられるのではないでしょうか。お風呂の温度は何度が好きとか、コーヒーには何をいれたいかとか、そういう些細な好き嫌いすら私は答えられません。一般的な正解をみて、それを選んでいるからです。

自分の好き嫌いは、自分でやってみて自分がどう感じるかを意識して初めて分かることです。他人から正解を見つけようとしても分かりません。道徳を守ることに関しても同じです。守るだけでは意味がないから守るなというつもりはなく、守らないことで気分が落ち込むなら守ってもよいということです。自分がどう感じるかが重要です。

そして自分がどう感じるかが重要であれば、一貫性(分け隔てなさ)は保証しなくてよいものになります。どう感じるかは、経験や時間の経過などによって変わりゆくからです。すなわち自身の態度や好き嫌いは、時と場合によって変わることを許容してよいということです。あるコミュニティで根暗として過ごしていても別のコミュニティでたくさん楽しく話してもいいし、誰にでも優しく接してきていても、どうしても苦手な人とは距離を取っても良いのです。かつて嫌いだと豪語していたものを好きになったって、好きだったものがどうしても受けつけなくなったって恥じることではなくなります。どちらか片方が自分自身で、どちらか片方が糾弾されるべき嘘という整理ではなく、どちらも同時に存在したり、連続性があって変化したものです。ただそれだけです。ただそれだけなのに、一貫性を求められ変わると糾弾される世の中なのは、人間は自分の理解が及ばないものを嫌がるからだと思います。一度理解したと思ったものが、実は違うということが判明する世界ではいつまで経っても安心できません。その安心を脅かす行為が許せないのではないでしょうか。

しかし人間は変わるものという前提に立つのであれば、理解しきれないことが当然なのであれば、かえって許せないと思う必要性がなくなりそうです。自身にしても他者にしても。そんなもんよね、と言えるようになるかもしれません。

そうはいっても全人類がこの前提に立つわけがなく、糾弾されて孤立するのはやっぱり怖いです。

ということで次回、孤立について考えます。

「何故孤立が怖いのか」(2022/2/6更新予定)

 

以下余談です。

親しさは、相手を特別扱いするとともに相手からも特別扱いされることで初めて成り立つものです。すなわちこちらの感じる類似性や欠落を相手も感じていることが条件となります。これを見誤ると相手から何も返ってこず、最悪の場合相手を傷つける行為となります。パワハラやセクハラといったものは、この思い違いがとても大きかったのにそれに気がつかなかったときのことを指しているのではないでしょうか。良かれと思って、というのは本当に良かれと思ってやったのだと思います。ハラスメントをする人に足りないのは思いやりでも善性でもなく、自分と他者の境界線なのだと思います。"自分が想像する相手の考え"が相手の考えていることだと思い込んでしまうから、相手からすると暴走しているような行為に及んでしまう。想像力の欠如や相手への尊敬の念のなさを指摘されても、自分の中に改善策を求められる限りさっぱり分からないまま"やってはいけないことリスト"に書かれていることを守ることになるのだと思います。原因は自分でも相手でもなく、その境界が曖昧なことにあるので。

他人の様子からルールを推測して道徳を守ることにした私は、ハラスメントをする人に怒りを覚えますが、根本的には同類です。何故ルールを守らなくてはいけないのかは理解していない。自分を他者に同化するか、他者を自分に同化するかという差異により、歪みの表出の仕方が変わるのだと思います。多分この怒りは行為によって傷つけられた人を想ってではなく、"うまくやらない"もしくは"分かってないバカ"のせいで、自分の隠している醜さが暴かれたように感じて生じてるものなのだと思います。