なくてもこまらないけれど、

個人的な事情に個人的に折り合いをつけるブログです

普通の人生について(やりたいと思えないという観点から)

ここで言う普通の人生というのは、学校や職場に毎日通うことや人と仲良くなること、そしてその延長として家庭を持ち、それを幸せだと感じることです。

私は今まで普通のフリをしてきました(下手なので浮いてますが)。このまま個人的な欲求を我慢して立ち回れば、もしかしたら、普通の上中下のなかの下の上くらいはできるかもしれません。ですが、一生嘘をつき続けるのはハードルが高いです。どこかで矛盾が生じて瓦解すると思います。化けの皮がいつ剥がれて糾弾されるのか、恐れ震える人生。もし剥がれちゃったら、もう生きていけない気がします。だから、定義した普通の人生以外も許されてほしいなと思います。

ところで、どうして普通でないと生きていけない気がするんでしょう。許されないように思えるのでしょう。どうして皆当然のように普通ができて、私たちは苦しいのでしょう。家族からの圧力のせいですか?友人もどきからのマウントのせいですか?世間の目のせいですか?自分の能力の低さのせいですか?

当てはまる顔やエピソードが思い浮かんだ方もいると思います。わたしも色々浮かびました。ですが、聞いてください。どうか、驚かずに聞いてください。

それ、あなたを否定するものじゃないです。

いやいや嘘でしょ馬鹿言うなと思いますよね。めっちゃ圧力感じますもんね。分かります。自分だけが何かを間違っていて、他の人たちは大正解を選べる大正解人間なんだと思ってました。けれど、"普通"に執着し続けて、"普通"を近くで見続けて気づいたことがあります。

"普通"をやりたい人、多いです。

何を当たり前のこと言ってるんだと思われるかもしれませんが、これは大発見です。

我々は"普通"を常識だからやらねば、あるいは出来て当然だからやれないのはおかしい、と考えていますが、多くの人は"やりたいこと"がたまたま今の時代の"普通"の範囲にあります。やるべきことだから多いのではなく、多いことが"普通"と呼ばれているのです。だから、私たちは"普通"を思うと元気がなくなるのに、多くの人は"普通"を目指すと元気に過ごせるのです。やりたいことに邁進してるならそりゃ元気出るわ。ついでに、社会制度も"普通"を念頭に出来ています。だってやりたいことやって安定してるとか最高じゃないですか。望む人数が多い(支持を受けやすい)部分をターゲットに制度が作られているので、その層に入るのなら安定して生きやすいはずです。

ですが、"普通"は時とともに移り変わっています。たった30年遡るだけで、女性は一人で旅行に行くことができなかったらしいです(自殺志願者だと思われてホテルが泊めてくれなかったそうです)。その前は働くだけで奇異の目で見られたし、さらに遡れば男女関係なく生まれによって生き方がほぼ固定されてました。武士の子は武士だったし、町人の子は町人でした。選挙権だって、日本史の中でみれば手に入ったのはめちゃくちゃ最近です。1889年、200年経ってないです。この時はセレブ男性しか権利をもらえなかったので、今と同じように年齢だけで権利が得られるようになったのは1945年です。1945年は初めてのゴジラ映画が放映された年です。こう聞くと、すごく最近な感じしません?けれど、私からしたら選挙権がある状態って普通です。一人で旅行に行くことも、働くという選択肢があることも普通です。

今普通だと思っていることは、かつて普通ではなかったことです。長い時間をかけて当時の普通の概念を変えて普通に"した"ことです。私たちが出来ない、あるいはやりたくない"普通"も、この概念を変え続けて普通に"した"ことの範疇に入るのだと思います。

なので、別に義務ではないです。望む未来のために普通の概念を変えた人々に敬意は払うことは忘れないようにしたいですが、だからといって必ず今の"普通"の範疇に入らなくてはいけないわけではないです。制度があるからやらなくてはいけないわけでもないです。ただの選択肢です。

それに、この"普通"の選択肢が生まれたことで、少なくとも私は学校に行けたし、強制的にお見合いさせられることはないし、経済的に自立することのハードルも低くなりました。私の望むことが完璧に"普通"にはなってはいないけれど、大正や昭和と比べると射程圏内に入りつつある気がします。だから、概念を変えてくれたことには敬意を払うべきだと考えています。今は、概念をさらに細分化しようとしている時代なんです。きっと。過渡期なんです。

それに、多くの人が信じていて私も信じている普通があります。例えば、出掛けた先で殴られないとか寝てる間に家が解体されたりしないとか(これらも実は絶対ではないですよね)。だから、現代の普通を批難したり、憎んだり、呪詛を唱えたりすることは、あまり生きやすさにつながらないのかなと思います。だって普通は罪ではないから。そして、普通じゃないことも罪ではない。

普通、普通じゃないというのは、何を当然と信じるかという選択にすぎず、であれば、選択をせず選択肢を批難するのではなくて、何を信じるか自ら選択する勇気を持つべきなのではないでしょうか。

いやそうは言っても、「友達いないとかヤバくない?」とか「いつ結婚するの?」とか「家族養えるような職に就きなよ」とかいわゆる普通を選ばなかった(選べなかった)ことに対して圧力をかけられるじゃん!辛いじゃん!となりますよね。このような発言は総括&通訳するとどうなるかというと「やりたいことやりなよ!なんか出来てなさそうじゃん、大丈夫?」です。

これらを私個人としての言い方をするならライブ行かないの?なんで?人生楽しい?」となります。けれど私はそんな押しつけをしません。なぜなら、生で聴く音楽に興味がある人もいればない人もいるということを、私は知っているからです。

現代の"普通"を望む人たちは、この押しつけに自覚を持つことが難しいです。なぜなら、何度も言いますが"普通"をやりたい人が多いからです。人数が多いゆえに必然的に人生で出会うサンプルも"普通"を目指す人が多く、「もしかして、自分の望みを他の人も同じように望むワケでもないのでは」と疑う機会が少ないのです。逆に、望むことが"普通"の範疇から外れていた人は、自分の望みに疑いの目を向けがちになります。自分の思考を強化できるサンプルが少ないからです。なので、自分にとっての普通を他の人に押し付けるのはやめましょう、とか人それぞれ普通は違います、いう議論はいつまで経っても平行線になるのだと思います。だって大抵は押しつけにならないから。単なる"共通の話題"にしかならないから。

もう、ここまでくるともはや"普通"って言い方が間違えてませんか。

広辞苑によると「普通」は

特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。

とあります。

"普通"は変わりゆくのに普通と呼ぶのですか?かつてありふれていなかったことなのに"普通"?どちらかというと、「常識」という言葉を使ったほうが適切かもしれません。例えば、「日本で暮らすなら日本語を話すのが普通だ」と言われたらそうかも、と感じますが「日本で暮らすなら日本語を話すのが常識だ」と言われたらそれは乱暴では?と言いたくなりませんか?ただ単に数が多いこと(普通)と、特定のコミュニティでの共通認識(常識)を混同して話をするから、ややこしいことになるのではないでしょうか。

自分の望みに疑いをかけたことがない人は、「常識」と「自身の考え」が無意識下で癒着していて、自分の考えを自分個人の考えだと感じてすらいないと思います。多分、健康な人が寝る時にいちいち呼吸を意識しないのと同じレベルで意識していないです。自分の考えについて疑ったことのある人と疑ったことのない人では、疑ったことのない人の方が強いです。議論の余地があるとすら思わないので、取りつく島がないのです。

そういうわけで、現代の"普通"で満たされている人々に別の考えを認めさせることは、エネルギーを使う割に実りがないように思います。

大体、私たちがやりたいのは私たちの考えを誰かに認めさせることではなくて、劣等感を抱かずに過ごすことでないですか?

もちろん、社会制度的にやりたくてもできないことにされていたり(人種差別とか性差別とか)、出来なくて当然のことが配慮されてなかったり(障がいや貧富の差に対するフォローとか)することもあって、それは社会の常識に対して異議を唱えていく必要があります。今の常識は、"望む人"が"主張した"ことで作られたものです。どれだけ数がいても、主張しないことには何も変わりません。

私が実りがないと言っているのは、あくまで「一個人に」「認めさせ」ることに力を注ぐことについてです。

ということで、次回から2回にわたって主張しどころの見極めについて考えようと思います。

次回、「分からせ」要求について(2021/12/26更新予定)