なくてもこまらないけれど、

個人的な事情に個人的に折り合いをつけるブログです

「分からせ」要求について

好きだったのに、辞めてしまったことってありませんか?あるいは、興味を持ったけれどどうしても始められないこと。くだらない、あるいは自分には無理と吐き捨てたこと。

今日は、そういうときに障害なっているかもしれない分からせ要求について書きます。

例えば、歌を歌うのが好きだったとして。幼い頃は、何も心配することなく歌えたでしょう。そして将来は歌手なり、アイドルなり、歌を歌う職業になるんだろうね、と周囲の人間から言われ、本人も将来の夢を歌手やアイドルと答えるようになるでしょう。周りはこの子は将来の夢が歌手だから歌っているんだと理解します。本人も、私は歌手になるんだ、頑張ろうと頑張り始めます。そして、関わる人間が増えるに従って気がつきます。

「私よりもずっとうまく歌える人がたくさんいるんだ」

こうなったらもう大変です。周囲の人間に、自分が歌が上手いことを「分からせ」ないと。そうでないと、歌を歌い続けることは出来ません。音大に入れるくらい上手くならないと、YouTubeの再生数がランキング上位になるくらい上手くならないと、ライブハウスを埋められるくらい上手くならないと、誰にも迷惑をかけずに生活するお金を稼げるくらい上手くならないと。だってそうでなければ言われてしまうからです。

「いつまでも夢を見るのはやめて現実を見なよ」

続けることの正当性を周囲に認めさせられるほどの能力や努力の姿勢が見せられなければ、もっと「賢い」「現実的な」選択をするように迫られます。私がもっと歌が上手ければ、歌うことが「生産的」と認められて許されたのに、どうしてもっと頑張らなかったんだろう。頑張らなくて許されなかった私には、歌を歌う権利がない。もうやめよう。

これが分からせ要求とそれに応えようとした人の結果です。好きなこと、してみたいこと、ただ楽しいからすることに対して、何故か周囲の人間が自分を納得させるよう要求してくることがあります。そして、何故か要求された側も応えなくてはいけないと思い込んでしまいます。

これは、例えたように「夢」という形でポジティブに求められることもあれば、「やっかみ」という形でネガティブに求められることもあります。

やっかみというのは、例えばメイクをしてみようかな、と思った時の「色気づきやがって」とか新しくスポーツをやってみようかなと思ったときの「始めるのが遅すぎて勝てないよ」とかそういうやつです。ただ好奇心からやろうとしたことに、外側から妄想で理由づけをしてきて、その理由に釈明することを求める行為です。あなたはただ着たい服に似合うようにメイクをしたいのかもしれないし、ラケットを振ってみたいからテニスをするのかもしれないのに。それに、理由がモテたいからでもそのスポーツで勝ちたいからでも「その通りです。浅ましい私を赦してください」なんて、やっかみを言ってきた人に赦しを乞う必要はないはずです。だってその人の赦しがなくたってやりたいことはできるし、罪でも何でもないからです。

これらの分からせ要求に対して何故要求された側も加担してしまうかというと、それはあまりにも当然のように蔓延っているからだと思います。「夢を持つ」ことを否定するのは悪として表現されるし、「やっかみ」はそれを乗り越えることが成功者の美談とされるからです。夢を否定すると悪になってしまうし、やっかみから逃げたら成功者になれないからです。そもそも成功者になる必要はないし、この考え自体が人間によって作られたものなんですけどね。

多分、エンターテイメントなんだと思います。

分からせを要求する側が、どんな壁にぶつかっても夢に向かって努力する人間に自分を重ねて気持ちよくなり、そのあとその人間が諦めて自分と同じになったことで自分の正当性を確認して安心感を得る、そういうエンターテイメント。

例えば金メダル候補のスポーツ選手の成績が芳しくなかったとき、何故か応援した人への謝罪を求められるのは、このエンタメの「夢」という部分を満たさなかったことへの糾弾なんだと思います。「諦め」という観点では、親が子にかつて自分が目指したことを目指して欲しがったり、自分に無理だったことをやらないで欲しがったりする傾向がそれにあたるのではないかと思います。次世代に受け継ぐと言えば聞こえがいいですね。

このエンターテイメントを求めるのはきっとやりたかったことを取り上げられたと感じている人です。本当は不本意だと感じていることがあると、それがおかしなことではなく、正当なことだと確認して安心したいという欲求が生まれるのではないかと推測しています。

だからといって、要求するな!とか謝れ!とか言ってもまず相手に自覚がないので、その訴えが通る確率は低いです。要求される側がこの分からせに気づかず思い込んでしまうのと同じように、要求した側も自覚はないでしょう。

訴えが通って謝られたとしても、私たちの置かれた状況が変わるわけではありません(その瞬間は気持ちいいかもしれませんが)。謝らせることも、「分からせ」の一種にすぎないのだと思います。何かをすることの許可を自分以外の人間から明示的に受けるいう観点では、謝らせることと能力で認めさせることに違いはありません。他人の気持ちがいつ変わるかは分からないので、常に許可が得られているか確認しなくてはならず、不安は拭えないでしょう。大体、今はインターネットで見ず知らずの人間のやっかみがいくらでも知れてしまいます(あんまりインターネットで夢の要求って見ないですね、私の見るインターネットが荒んでる?)。逐一全てに取り合って思い込んで謝らせようとしていたらいくら時間があっても足りないです。

だから、あなたが「何かをする」にあたってその正当性の証明に力を注ぐ前に、その一個人に分からせないとそれをすることはできないのか?という疑問を持ってみてほしいのです。分からせ要求の存在を認識したうえで「いつどこまで真面目に取りあうかを自分自身で決める」という意思決定をはさんでほしいのです。もしかしたら環境を変えてその人から離れれば済むのかもしれませんし、もしかしたら無視しても大丈夫なのかもしれません。

常識として要求される"夢"や"挫折"や"大人になること"に対して、これらが今相対している個人の要求に過ぎず、この世の絶対の真理ではないと認識したとき、おのずとみえてくる選択肢も変わるように思います。

ただ、外部に主張しないと自分だけではどうしようもないことっていうのもあると思っていて。次回はそれについて書きます。

次回、存在を示すための主張(2022/1/2更新予定)