なくてもこまらないけれど、

個人的な事情に個人的に折り合いをつけるブログです

精神は万能ではない

人間の精神は頑なであり、一日二日で変わることはありません。自己啓発本やそれに類するブログを読んだり、衝撃的な出来事に遭遇したりして考え方を変えたつもりでも、その決意を超える嫌なことが起きたら簡単に元に戻ってしまいます。

そんな難しくて時間のかかることをどうして私はやりたいのかというと、精神さえ変えることができれば、毎日何もできずに終わることがなくなると思っているからです。精神さえ変わることができれば、毎日絵を描くことも、興味を持った映画やドラマ、買った円盤をちゃんと観ることも、本を読むことも、荒れ果てた家を片付けることも出来るはずです。

なので、精神の問題が片付いたらどの順番で物事を進めていくかを考えました。

絵を描いたりテレビやPCを使うことができないのは、家が荒れ果てており、机も使えなければ座れる床もなく、テレビまでたどり着くことも難しいからです。すなわち優先すべきは片付けることでしょう。片付けはどうしたらできるか?まずは、机の上のゴミを捨てて、ゴミでないスクラップブックに貼り付けようと思っていた紙モノを貼りつけて…これは、ものが積み重なった床の上でもできる…そしたら次は、買い集めた可愛いぬいストラップたちを一旦まとめて箱にしまいます。そうすると机があくので、その半分に床に置いているものを乗せます。机半分と、床がちょっと空くので机の前に座れるようになります。そうすると、本が読めるようになるので読んだら捨てられる系の雑誌を優先すればさらに物を捨てられて床が空きます…とここまで考えたところでふと思いました。

これ、精神関係ないのでは?

私が人の気持ちが分からず社会から浮いていても、頭の回転が悪くて興味の幅が狭いから人と会話が成立しなくて恥ずかしくても、何もできないから何も人に提供できず、その結果おそらく将来誰にも助けてもらえず死ぬことも、机の上のゴミをゴミ箱に移動させる動作を阻むものではありませんでした。試しに一個やってみたところ、とくに何のトラブルもなくゴミをゴミ箱に移動させられました。

もしかして、私の行為と、私の精神はなんの関係もなく、独立しているのではないでしょうか。

そして、これを契機に思い出したことがあります。私は子どもの頃とても体力がなく、ちょっと走っただけで息が上がってしまう身体でした。インドア派の帰宅部であったため、学校からは"こいつは自分を改善する気がないやる気のない人間である"という評価を受け、体育の成績は悪かったです。自分でも、私は努力のできない駄目な人間だと思っていました。皆苦しくても頑張って体力を勝ち取っているのに、私はすぐ根を上げる根性なしだから体力がつかないのだと。けれど、理由は重度の貧血と自律神経失調症でした。走れないのは具合が悪かったからでした。私の根性の問題ではなかったのです。

しかし、何かができないことや好ましくない状態であることに、精神が結びつけられることは珍しくないように感じます。勉強ができないのはやる気がないからだ、待ち合わせに遅れるのは相手のことを軽んじているからだ、太っているのは怠惰な性格だからだ…。好ましい状態を指す場合としても"寝食を忘れて何かに熱中すること"が称賛される点が挙げられます。寝てない自慢とかよく耳にします。もしかすると、私を含む多くの人間は身体および身体を使うことを軽視していて、反対に精神を絶対視しているのではないでしょうか。

勉強ができないのは先生の話を大きく勘違いしているのかもしれないし、待ち合わせに遅れるのは朝起きれないほど体調が悪いのかもしれないし、太っているのは単に高カロリーな物を食べているからかもしれません。そうだとしたら、するべきことは精神を正すことではなく、別の先生や参考書を起点に勉強してみるとか、病院で薬を処方してもらうとか、低カロリーな食事にするとかです。精神を変えることではなく、現実の世界での物理的なやり方を変えてみることです。

精神の問題ではないことを精神で解決することはできません。しかし何が精神の問題なのかというと、それはよく分からないというのが私の今の考えです。私の貧血は、自分で身体の問題を疑って病院に行ったのではなく、立っていられなくなったことで周囲に異常と認識され、病院に連れて行かれたことで発覚しました。薬を飲むようになってはじめて、自分が具合が悪かったことを知りました。多分、問題を抱える当事者は何を問題かが分かっていなくて、その状態が"当然"だと思っていることすらあります。

やってみて、前の状態と比較することで初めて分かることがあります。比較したうえで前の方が居心地が良ければそれでよいです。ただ、比較するにはやってみる必要があります。1つの方法に取り組むだけでは分からないことがあります。これを念頭におくことで、1つの問題に対して複数の側面から解決を図るという選択肢が生まれます。1つのことに打ち込むことが称賛されるのは、そのパターンで成功した後です。結果が出てからです。

問題の切り分けとして、物理的に解決できないことが精神の問題だとすると、「ない」ことの証明は悪魔の証明です。1つのやり方で一生取り組んで解決できなかったとしても、あと1日生きていたら解決したかもしれません。また、同じ結果が表出していても、原因はときによって違うこともあります。他者から精神的な問題を解決したという話を聞いて私が同じように精神的な問題だと思って努力をしても、私の場合は物理的な問題だったということがありえます。だから、選択肢を知ることが大事です。本を読んだり、ドキュメンタリーを観たり、有名無名関わらず誰かのインタビューを読んだりして他の人が取った選択肢を知り、自分の選択肢としても加えてみることです。なるべく複数の人間が関わっている媒体から探すのがおすすめです。推敲されているので、SNSの有象無象の発言から探すより効率的です。あええ周囲の人の知恵を借りないのは、そのためには自分が何にどう困っているのか的確に説明できないといけないからです。それができれば苦労はしません。「私根性なくて走れないんだよね」に対して「貧血じゃない?」と返せる人はエスパーです。根性がなくて走れないと思ったときにするべきことは、多分「走る 息切れ」をキーワードに本屋に行くことです。キーワードにあてはまる本は、精神ではなく、スポーツ医学とか健康関係の棚のほうに多いと思います。体調を崩したことのあるアスリートのインタビューでもいいです。とにかく、複数の策を持ってください。正々堂々頑張らないでください。私たちはもっとズルくていい。

そうはいっても、物理的な介入で解決することは分かっていても、身体が動かせないから八方塞がりなんだよということもあります。ゴミをゴミ箱に捨てればゴミを捨てられることも、お風呂に入ればお風呂に入れることも分かっているけれどできない。面倒くさいとか、行動するにあたって同居人に見られたくないとか、ちゃんとした人間みたいなことできるわけがないとか。そんなときは、その気持ちのままでいいです。面倒くさいと思ったままでも、行動することを恥と思ったままでも、できないと思ったままでもいいです。そのままでいいので、頭の中で喋るのを止めてください。おそらく、四六時中喋っているはずです。私はそうでした。エッセイ漫画の地の文並みに、寝ていても、スマホを眺めていても、通勤していても、ご飯を食べていても、いつも頭には別のことを考えている。あれをやらなきゃこれをやらなきゃ、明日ああ言われたらどうしようこう言い返そう…それを止めてください。なんで止められないんだろうとか考えるのも止めてください。自分の気持ちと向き合うとか、無視するとか受け入れるとかではなく、ただ、止める。文章を浮かべないでください。2秒できれば上出来です。

そうすると、自分の置かれている景色や抱いている感覚に初めて気がつくはずです。服の袖が毛玉だらけだとか、手足が冷えているとか、足元に髪の毛が落ちているとか、今いる場所は人間社会なんてものではなく、一時的な地球の表面の形に過ぎないとか。

それをただ感じたとき、それがこれからどうなれば心地よいのかも同時に感じられたら、それをしてください。頭の中の文章は止めたまま。

精神から身体と身体のある世界という物体の存在に気がついたところで、今度は身体を取り巻く環境に目を向けます。

次回、「自己責任の境界線」(2022/1/23更新予定)